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  • スポーツや芸術に才能が必要なら勉強に才能がいるのは当たり前。

    2025年7月4日

    勉強に関して「正しい方法さえ身につければ誰でもできるようになる」と断言する人は、医学部生や東大生といった難関を突破した層や予備校講師の中にも少なくありません。確かに、非効率なやり方で何時間も費やすより、効果的な学習法を取り入れたほうが成績が上がるのは事実でしょう。例えば、英単語を機械的に書き取りするより、間隔反復を使って記憶したり、問題演習を通じてアウトプットを増やすなど、具体的に「正しいやり方」と呼べるものはあります。

    しかし、それをもって「誰でもできるようになる」とまで言い切るのは短絡的です。たとえば、スポーツの世界で考えてみると分かりやすいでしょう。「正しいフォームで、計画的な練習を積めば誰でも甲子園に行ける」とは誰も言いません。野球にはセンスや運動能力、体格、試合でのメンタルなど、練習だけでは埋めきれない個人差があります。練習法の良し悪しは重要でも、全員を同じレベルにできるわけではないのです。

    勉強も同じで、記憶力や読解力、論理的思考力、集中力など、生まれつきや成長過程で培われる要素が大きく影響します。さらに環境要因も大きいです。落ち着いて学習できる家庭環境、経済的余裕、周囲の教育水準など、努力以前に個人が選べない条件が整っていなければ、どれほど「正しいやり方」を知っていても同じように再現はできません。

    加えて、こういう「正しいやり方をすれば誰でもできる」という人自身が、実は灘や筑駒、開成といった超進学校や、東大理三などの最難関に合格していないケースも少なくありません。そうなると、「誰でもできるようになる」という主張が、果たしてどのレベルを指しているのか、疑問が湧きます。結局、「自分ができた程度の成績までは誰でも行ける」という、自分に都合のいい基準を暗黙のうちに設定しているだけではないでしょうか。

    人は、自分が得意なことは「頑張れば誰でもできる」と無意識に思いがちです。逆に、自分が苦手なことは「才能だ」「向き不向きがある」と考えがちです。これは、人間のメタ認知能力の限界を示す典型例です。自分の認知の枠を超えて、他者の能力差や条件差を客観的に想像するのは簡単ではありません。だからこそ、「正しいやり方で誰でもできる」という言葉には、一見親切なようでいて、実際には他者への理解や想像力が欠けた面もあるのではないかと考えさせられます。